三十三間堂官衙遺跡(国指定)
平安時代前半ごろの陸奥国亘理郡衙(郡役所)跡です。保存状態が良く、律令時代の地方行政の様子を知ることができる貴重な遺跡であることから、国指定史跡となっています。
所在地
宮城県亘理郡亘理町逢隈下郡字椿山
面積
約25ヘクタール(うち国史跡範囲120,721平方メートル)
史跡指定年月日
平成4年(1992)1月21日
環境
亘理町北部、JR常磐線逢隈駅西の阿武隈高地から派生する標高約40mの丘陵上に位置しています。約1キロメートル北には阿武隈川が流れ、周辺には縄文時代から古代にかけての遺跡が数多く分布しているほか、平安時代の記録「延喜式」に記されている式内社4社(安福河伯神社、鹿島緒名太神社、鹿島天足和気神社、鹿島伊都比気神社)が置かれました。
調査・研究史
遺跡の範囲は南北約750メートル、東西約500メートルにわたっ て広がる遺跡です。最も古い記録として『風土記御用書出』(安永8年・1779)に「三十三間堂跡」と記載があり、古くから礎石が並んでいることが 知られていました。大正・昭和時代に測量調査や研究が行われ、礎石建物が 寺院や神社である可能性が考えられましたが、その後の研究により、平安時代の陸奥国曰理郡衙 (郡役所)の正倉ではないかと指摘されるようになりました。
発掘調査成果
遺跡周辺で計画された宅地造成計画をきっかけに、昭和61年から63年(1986~1988)に実施された発掘調査によって、この遺跡が9世紀前葉から10世紀代の陸奥国曰理(亘理)郡衙であり、その規模や構造、変遷などが明らかになりました。 これ以降、遺跡の保存を図るとともに、国史跡の指定、史跡指定区域の公有化が進みました。
また、平成14年から25年(2002~2013)には、発掘調査を再開し、さらに遺跡の内容が明らかになりました。
遺跡の概要
遺跡内は、中央の沢を挟んで北側と南側に分けて施設が配置されていて、麓からの通路は丘陵東から入り込む3つの沢を利用してつくられていたことなどが分かりました。
北地区
遺跡の北側には、役所の中心施設で儀式などが行われた「郡庁院」をはじめ、「東院」「北東院」「北院」とみられる建物群などの実務官衙施設が置かれていました。郡庁院は南北約65メートル、東西約50メートルの方形で、掘立柱塀で囲まれており、中には正殿、西脇殿、北辺建物などが置かれました。また、塀の南辺には正門である八脚門、東辺には東門となる四脚門が設けられていたことが分かりました。
また、郡庁院をはじめとするこれらの施設は3~4時期の変遷があり、建物は掘立柱建物を主体としていますが、郡庁院などで4時期目となる礎石建物がみつかっていることから、主要建物は最終段階には礎石建物だったと考えられます。
南地区
遺跡南側には正倉院が置かれ、これまでに10棟の礎石建物がL字状に配置されたことが分かっているほか、掘立柱建物が数棟建てられており、当時の租税である米などを保管・管理していたと考えられます。
これらの建物は溝で方形に囲まれ、その範囲は東西約156メートル、南北約140メートルです。正倉院の東辺中央と、北辺では溝が途切れていて、入口になっていたと考えられます。
調査成果から、三十三間堂官衙遺跡は郡衙の主要施設や施設構成、変遷などが分かる貴重な遺跡であることが分かります。 なお、亘理郡衙は現在の亘理郡(亘理町・山元町)にあたる範囲を治めた機関で、奈良時代には別の場所に置かれていた可能性が考えられています。 遺跡の概要や発掘調査により出土した土師器や須恵器などの遺物の一部は、亘理町立郷土資料館常設展示室で展示しています。 また、この貴重な遺跡を将来にわたって守り・伝えていくため、亘理町では令和元年度に史跡三十三間堂官衙遺跡整備基本計画を策定し、史跡の保存と活用を図るため整備事業を行う予定です 。
生涯学習課/文化財班(郷土資料館)
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